乳酸菌たちがつくりだす有用な成分、「乳酸菌生産物質」についてシリーズでご紹介しているコラム。今回は、乳酸菌生産物質が日本で初めて開発されてから、約半世紀の歳月を経て広く普及するようになるまでのストーリーを紹介します。
人の腸をお手本に乳酸菌を育てる
乳酸菌生産物質を生み出す鍵となる技術が「共棲培養」です。
この培養とは、微生物や細胞などを人工的な環境のもとに増殖させること。いうならば、微生物を飼育することです。1種類の微生物だけを増殖させることを純粋培養と呼びます。それに対して、共棲培養とは、複数の微生物を共棲(共生)させながら育てていきます。
共棲培養のヒントは、私たちのからだの中にあります。人の腸には100兆ともいわれるたくさんの細菌が棲み、とても複雑な生態系のもと、“共棲”生活をしているのです。これら細菌たちの壮大な共棲は「腸内フローラ」とも呼ばれています。
しかし、その細菌たちの共棲を体外で、人工的に再現することは容易ではありません。相性のよい細菌の組み合わせを見出すだけでも気の遠くなるような試行錯誤が必要ですし、細菌たちの餌となる「培地(ばいち)」や温度など最適な環境を整えなければならないのです。
さまざま壁を乗り越え、その困難な開発を成し得たのが、乳酸菌生産物質の創始者、正垣一義氏でした。正垣氏は、大谷光瑞農芸化学研究所の所長として研究に取り組み、人間の腸に由来する8種類の乳酸菌による共棲培養技術を確立。1944年、乳酸菌生産物質を用いた日本初の製品「スティルヤング」を開発したのです。
そして、正垣氏の技術と情熱を継承し、乳酸菌生産物質の普及に取り組んだ人物がいます。それが、後に光英科学研究所を設立することになる村田公英でした。
乳酸菌生産物質が普及するまでの道のり
1940年、山口県に生まれた村田は、青年時代、電気の技術者を目指していたそうです。そんな彼が乳酸菌生産物質の研究に取り組むことになったきっかけは、幼い頃の運命的ともいえる出会いにありました。母親が日本初の乳酸菌生産物質製品「スティルヤング」の販売員をしており、8歳の頃から「スティルヤング」を飲んでいました。製品を必要な方々へ届けるなかで、母親は乳酸菌生産物質が持つ可能性を実感し、村田青年に乳酸菌研究の道に進むことを勧めたのです。
こうして1959年、村田は大谷光瑞農芸化学研究所に入所し、所長である正垣氏のもと乳酸菌生産物質の研究に取り組み始めます。
しかし、道のりはけっして平坦ではありませんでした。前回のコラムで紹介したように、正垣氏が国会で演説を行うなど、乳酸菌生産物質の注目は徐々に高まりましたが、事業として成功するまでには至りませんでした。紆余曲折があり、1969年、研究所はいったん閉鎖を余儀なくされます。
その後も正垣氏は個人的に研究を続けました。研究所を辞めた村田も、電気技師として働きながらも乳酸菌生産物質への情熱を灯しつづけました。サラリーマンとの二足のわらじを履きながら正垣氏の研究を支え、自らの知見も深めていったのです。
このような物語が第2章を迎えるのは1994年のこと。正垣氏の命を受け、村田らが中心となって光英科学研究所が設立されました。村田は再び乳酸菌生産物質一筋の研究人生を歩み、ついに共棲培養によってより多くの乳酸菌生産物質が生産できる技術を確立。しだいに乳酸菌生産物質の認知度も高まり、人々の日々のくらしのなかで、健康に貢献するようになったのです。
それは、正垣氏が日本で初めて乳酸菌生産物質を開発してから、およそ半世紀後のことでした。次回のコラムでは、そのブレイクスルーの核心となる共棲培養技術を深掘りして紹介します。
参考文献・サイト
https://koei-science.com/speciality/co-culturing/
『不老腸寿』(村田公英著)幻冬舎
【バックナンバー】
乳酸菌生産物質とは① 細菌たちがつくりだす成分
乳酸菌生産物質とは② 乳酸菌たちをめぐる基本知識
乳酸菌生産物質とは③ ヨーグルトのはじまりと乳酸菌生産物質
乳酸菌生産物質とは④ 乳酸菌生産物質のキーパーソンたち
乳酸菌生産物質とは⑤ 乳酸菌の共棲培養を育んだ情熱 (現在の記事)
乳酸菌生産物質とは⑥ 人の腸をお手本に「共棲培養」を深める
乳酸菌生産物質とは⑦ 腸内細菌学の巨人、光岡知足が唱える「バイオジェニックス」と乳酸菌生産物質
乳酸菌生産物質とは⑧ 350以上もの成分を含む乳酸菌生産物質、保湿もペットもアスリートにも?! 注目が集まる理由